大安寺について

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河野 清晃師こうの せいこう

大安寺前貫主・河野清晃師は、明治三十九年八月二十三日 福岡と熊本の県境の医師の家に生まれました。幼くして高野山に登り、僧侶の道に進みます。
高野山で名を成しますが、やがて山を下り、昭和十五年(1940年)に中山寺の石堂恵猛大僧正から、大安寺住職を拝命しました。
荒れ果てた大安寺の復興に尽力しますが、大戦で応召。帰山後も苦労を重ねます。

そういった中、若い人たちを国際的に目覚めさせようと昭和三十一年(1956年)には、「大安寺文華会」を発足させ、奈良日独文化友の会を創って、活動を始めました。昭和三十八年(1963年)には会を「奈良日独協会」と改称し大安寺を本部としました。
きっかけとなったのは清晃師が高野山大学時代に発表した論文「高野山根本大塔の研究」をベルリン大学教授で京都日独文化研究所主事であったF・M・トラウツ博士がドイツ語に翻訳、広く世界に紹介したことにありました。
大安寺の伝統行事を復活するべくつとめた中で、光仁会はよく知られるようになりました。これは光仁天皇(奈良朝第7代)の一周忌の法要を桓武天皇が大安寺で行わったっという記事(続日本記)によるもので、その命日の一月二十三日(新暦)に行われます。
光仁天皇の御忌法要として、天皇のいわれに因む笹酒が知られるようになり、今日のがん封じ笹酒祭りが盛大におこなわれるようになりました。(写真は高松宮殿下、同妃殿下の御臨場を仰いで) また正月の修正会、2月の節分祈祷会、3月の二の午法要、4月の弘法大師正御影供、6月の竹供養等々、続け様に法要行事をし、人々の参詣が絶えないようになりました。
伽藍整備にも力を尽くし、境内を拡張し、今日の寺観をみるにいたりました。
晩年まで意欲衰えず矍鑠とされていましたが、平成13年11月16日、96才にて遷化されました。

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