大安寺について

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聖徳太子像聖徳太子像

熊凝精舎百済大寺

 大安寺は、聖徳太子が平群郡額田部に熊凝道場を創建したことに始まります。やがて百済大寺、高市大寺、大官大寺と名と所を変え、平城京に移って大安寺となりました。この間の事情を『三代実録』元慶四年(880年)冬十月の条には次のように記します。
 「昔日、聖徳太子平群郡熊凝道場を創建す。飛鳥の岡本天皇、十市郡百済川辺に遷し建て、封三百戸を施入し、号して百済大寺と曰う。子部大神、寺の近側にあり、怨を含んで屡々堂塔を焼く。天武天皇、高市郡の夜部村に遷し立て、号して高市大官寺といい、封七百戸を施入す。和銅元年平城に遷都し、聖武天皇詔を下して律師道慈に預け、平城に遷し造らしめ、大安寺と号す」 

 天平十九年(747年)に作成された「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」(重要文化財・文化庁蔵)には、そもそも百済大寺の造営は、聖徳太子の遺言によるものであったとされております。
 じょめい天皇がまだ田村皇子と呼ばれた頃、聖徳太子の病が重くなった為、推古天皇は皇子を見舞いに遣わしました。太子は、自らが熊凝村に建てた精舎を、御世御世の天皇のために大寺となし永く三宝を伝えてほしいと皇子に遺言されました。太子の付嘱をうけて皇子は舒明天皇となった時、百済川の畔に熊凝精舎を移し建て百済大寺とされました。
 これは九重の塔を持つ当時最大の大規模な伽藍であったとされます。ところが舒明天皇の時代には完成を見なかったようで、造立工事はその後、皇后の皇極天皇に引き継がれました。これには当時最盛期にあった蘇我氏はまったく関与していないようであり、太子の遺志を承けて天皇家が威信をかけて造営した最初の官立寺院であったといえます。
 百済大寺は今日までその所在がはっきりせず、広陵町の百済寺が比定されてもおりました。しかしその後、桜井市にある吉備池から巨大な寺跡が発掘され,吉備池廃寺と名付けられました。その群を抜いた規模からこれが従来云われてきた幻の大寺、百済大寺に違いないと考えられています。

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